こんにちは!チェックです。
今日は新コーナー「鞆で働く(仮)」をお届けしましょう!
我が鞆にはたくさんの飲食店、カフェなどがあります。
色んなお店も鞆の魅力の一つなんよね。
そして、魅力なんはお店だけじゃなくて、
そこで働く人も魅力の一つ。
そこで、鞆のお店とそこで働く人にスポットを当てて、
いや、むしろ「人」の方によりスポットを当てて、
紹介していこうと思います。
第1回目は、鯛を中心に和食のお店をされている
「鯛亭(たいてい)」さんの大将をご紹介しましょう!
大将にインタビューした内容をまとめてみました。
料理の道を志したのは18歳の時
鯛亭の大将、豊田さんは昭和17年生まれ。御年72歳。
出身は鞆ではなく、広島県三原市。
18歳の時に「手に職をつけたい」という想いから
料理の道に進むことを決意。
最初は食堂で働いとったらしい。
しかし「なんでも作る」食堂では技術が身につかず、
かつ、その食堂の親方も「お客が来ればそれでええ」
という考え方じゃったらしく、技術の向上は望めんかった。
ただ、包丁の使い方はそこで教わったそうです。
20歳で単身、大阪へ!
同じところにとどまっていては進展がないと思い、
20歳の頃、単身、大阪行きを決意。
大将が18歳だった当時は1960年(昭和35年)、
戦争が終わって15年。
自分が飯を食うため、そして日本を良くしたい
という想いから、みんな目の色をかえて
働いとったそうです。
朝は早く、夜は遅い。そして休みもろくにない。
昔は良い店が多くあり、そんなお店で働けば”箔がつく”
あの店で働くにはどの伝手(つて)を使えばいいか。
あのお店で働くには、まずこのお店で実績を積んで…。
「あいつはあの店にいったど!だったらワシはこっちの店や!」
こんな風にみんな競い合っとったそうです。
「大変な時代だったけど、活気があり良い時代だった。」
と大将は言います。
日本は高度経済成長期を迎え豊かになっていく。
高速道路、新幹線、東京オリンピック。
テレビ、冷蔵庫、掃除機といった三種の神器。
国民の生活水準は上がっていきました。
カラーテレビを見れたのは1日2時間程度。
当然、一家に一台あるわけではなく、
相撲やプロレスが始まったらお店には人だかり。
野球がはじまれば、さらに人だかりは増えたそうです。
そして、大将はあの「大阪万博」に携わってたらしく、
その時の話もしてくれました。
戦後復興、そして経済成長の原動力となった
先人たちの努力は計り知れないものがありますね。
大阪万博の話、鞆で仕事を始めた時の話はまた次回!
以上、チェックでした。
共に地元を元気にしよう!
チェック社長(小川真平)
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