福山市鞆町で開催される「鯛網」の歴史と概要

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こんにちは!チェック社長こと、サンモルトの小川真平(@Shinpei_Ogawa)です(*^^)v

もう2週間ほど前の話になりますが、鞆鉄鋼団地の一角で「鯛網(たいあみ)」で使われる漁船が錆びを落としたり、塗装し直したり、メンテナンスされてました。

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福山市鞆町では毎年5月になると「鯛網」と呼ばれる行事が開催されます。この準備が着々と進んでいるようです。

今日はその「鯛網」の話をしていきましょう!実は昨年、約20年ぶりに鯛網を体験してきたんですよ!

鯛網のはじまりはいつ?考案者はだれ?

まずは鯛網の歴史について触れていきます。

1632年(寛永9年)に「しばり網漁法」という漁法を応用して「鯛網」という漁法が考案されました。しばり網漁法というのは、沿岸部に建て網を張って、岸近くによってくる鯛を獲る漁法。そうじゃなくて、沖合いに出向いて鯛を積極的かつ効率的にとる方法を考えついた。

それが、しばり網漁法を応用した「鯛網」ってわけですね!

考案者は福山藩初代藩主(昨日のブログでも登場した)水野勝成(みずのかつなり)の命を受けた走島(はしりじま)の村上太郎兵衛(むらかみたろうべえ?)と鞆の当納屋忠兵衛(とうのうやちゅうべえ?)という人。

村上さんはこの鯛網という漁法で走島の漁港を築いた。考案した5年後に亡くなられるのですが、それ以降1916年(大正5年)まで村上家は10代にわたってこの鯛網という漁法を受け継ぎ、進化させたようです。

まだこの頃は「鯛網」って言っても今のような観光じゃなくて、漁師さんの「いち漁法」にすぎんかったってことですね。

複数の島で構成された豊かな瀬戸内海

瀬戸内海はたくさんの島々と入り組んだ海岸線、適度に分布する浅瀬、複雑な潮流、大きな干潮差、そして水温の関係など、様々な好要因により魚のエサが豊富で、魚類の生育に適し、また、稚魚、成魚それぞれにとって格好の生息場所になってました。

鞆といえば鯛じゃけど、鯛は外洋の深海で冬を過ごし、3月末頃から東西より瀬戸内海に入ってき、産卵場を求めて、鞆の沖合を遊泳しております。

漁法の鯛網から「観光鯛網」へ

鯛網は瀬戸内海各地に広がっていき、見学に来る人も多くなってきた。

当時の鞆町の町長、横山運次(うんじ?)さんは「美しい仙酔島(せんすいじま)を背景に、桜鯛のおどる勇壮な鯛網をみせれたら…」と考え、町議会議長の吉本三良兵衛(よしもとみよしべえ?)さんと協議。

森下仁丹の創業者、鞆出身の森下博さんの支援を受け、1923年(大正12年)第1回観光鯛網を開催することになります。

今から91年前の話なんですね。

一言で森下博氏の支援って書いたけど、仁丹で得た利益を地元に還元していた方なので、相当な支援だったんじゃと思う。

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この森下博氏については改めて触れていきますね。

そして、第1回目の開催以降、大東亜戦争で一時中断されたこともありましたが、1949年(昭和24年)に再開され(うちの会社の創業年でもある)今日に至り、今年で85回目となる。

大正15年5月24日の鯛網には、摂政宮(せっしょうみや)殿下、(のちの昭和天皇)をお迎えし仙酔島からは鞆の浦の風景を、田の浦(仙酔島にある海水浴場)の仮設桟橋からは鯛網をご覧になられてたそうです。

鯛網の魅力とは?

こればっかりは実際に体験しないとわかりませんが、漁船が行く姿は壮大ですし、船上からみる鞆の町並みは一見の価値ありです!

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今回のチェックポイント!

・鯛網は1632年(寛永9年)に考案された
・鯛網が観光として行われたは1923年(大正12年)
・観光事業に成るにあたり森下博氏の援助があった
・観光鯛網は91年の歴史、今回で85回の歴史がある
・大正15年には昭和天皇もご覧になられた

以上、チェックでした。

共に地元を元気にしよう!

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チェック社長(小川真平)

代表取締役株式会社サンモルト
1981年、広島県福山市鞆町生まれ。地元を中心にプロパンガスの販売、住宅リフォーム、ペレットストーブの販売を行う傍ら、地元を元気にする活動を展開中。毎月第4日曜日に鞆町の沼名前神社で開催しているとも・潮待ち軽トラ市(鞆の採れたて朝市)。「火育マイスター」として、火を通じて子ども達のココロと生きる力を育む火育活動。住宅リフォーム大学の講師。鞆町の空き家再生プロジェクト。福山南部の未来を創る会所属。これらの活動を通じて地域から日本を元気にする。

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コメント

  1. しま より:

    私はこの走島で生まれ育ちましたので、
    その雰囲気を少し伝えながら歴史的考察の少しします。

    走島への移住の内容は「備陽六郡誌・沼隈郡誌・福山誌料」等で紹介されていますので、ご参考にしてください。

    現在、日本と中国間で揉めている尖閣諸島問題と同じようになる事危惧してそれに備えて準備をしたのでしょう。

    戦国の世が終わって間もなくであり、まだ戦国の気風は残っているとおもわれます。
    その時代を勝ち残った勝成公であればこそ、他藩との領土・領海争いに発展する前に実績をつくり認知させて置く必要があったと思われます。

    そこで当時でも、この走島と枝島を与え守備任せる!と言う事は、それに相応しい一族を選定したと考えるのが妥当と思えます。

    ただ、走島に移り住んだ主人(村上本家)と
    家来・百姓は中世の主従関係を色濃く残した運命共同体であり、平時は漁業・農業に従事し、有事は戦闘要員になるものです。

    また、この走島の村上本家が大正期に没落して行くのと呼応して島民の中から数家の網本が発生し
    「鯛網(走島では魚網といいます:中型巻網漁)」を引き継ぎます。
    観光鯛網等Webでは、走島村上家の没落に伴い走島から「鯛網(魚網)」が無くなった。ような記載がある事は残念です。

    島内の伝承では、信州更級城主・村上義清(川中島合戦の発端となる)の後胤とし、因島へ住んだ後走島へ入島した。と伝えますが、これは歴史的にかなり無理があり、因島村上氏の一族と考えるのが妥当です。

    • チェック より:

      しまさん

      こんにちは!チェックです(*^^)v
      コメントの確認及び返信が遅くなり、申し訳ございません。

      興味深く・勉強になるコメントをありがとうございます!

      古来、走島は重要な拠点だったわけですね!
      そして、魚網は今も健在だということですかね!

      鞆でさえ、様々な歴史が混在しているように感じます。
      正しい歴史を後世に繋げていきたいですね。