こんにちは!チェックです(*^^)v
今回はかなり久々に「小学6年生でも分かる福山市の歴史」シリーズを
お届けしたいと思います!
前回は、この2つのシリーズをお届けしました。
鞆の地名の由来と沼名前神社の発祥(前編)
鞆の地名の由来と沼名前神社の発祥(後編)
我が地元、福山市鞆町。鞆(とも)と密接な関係があるのは室町幕府将軍
「足利氏(あしかがし)」をおいて他にありません。
ということで、
鞆の浦と室町幕府将軍「足利氏」250年の繋がりvol.1をお届けしましょう!
ただし、こういった歴史は掘り起こしたり、深掘りをしているとキリがないため、
あくまで「鞆と足利氏との関わり」をメインに話を進めていきます。
鎌倉幕府討幕の一翼を担った「足利尊氏」
「鞆と足利氏との関わり」は
室町幕府初代将軍「足利尊氏(あしかが たかうじ)」にまでさかのぼります。
足利尊氏(あしかが たかうじ)1305年~1358年
室町幕府初代将軍(在位は1338年~1358年)
足利尊氏は足利貞氏(さだうじ)の二男として生まれ、最初は高氏(たかうじ)と
名乗っていました。(紛らわしいので、文中は尊氏で統一します)
1221年(承久3年)朝廷側が鎌倉幕府の圧倒的な武力の前に敗退した
承久の乱(じょうきゅうのらん)の後、幕府は朝廷に干渉、皇位継承にも口出しを
するようになりました。
御嵯峨天皇(ごさがてんのう)の後、持明院統(じみょういんとう)と
大覚寺統(だいかくじとう)の二皇統に分かれ、皇位継承をめぐる争いが起こると、
幕府は両統が相互に即位することを朝廷に提案します。これによりさらに争いは激化。
両統の対立を解消し、天皇の威厳を回復することが朝廷の長年の念願であったが、
大覚寺統の後宇多(ごうだ)天皇は1332年(元亨-げんこう-元年)の暮れに
自らの院政をやめ、後醍醐(ごだいご)天皇の新政が実現します。
後醍醐天皇は王政復古の理想のもとに、討幕の計画を進めたが討幕計画は
いずれも失敗に終わってしまいます。
後醍醐天皇は隠岐(おき)に流され、持明院統の光厳(こうごん)天皇が即位します。
しかし、後醍醐天皇の討幕の意志は固く、この間に皇子(おうじ)である
護良(もりよし)親王は諸国に兵を募ります。
後醍醐天皇の呼びかけに応じた楠木正成(くすのき まさしげ)は赤坂城・
千早(ちはや)城(現在の大阪府)にて幕府の大軍と戦い、それに応じ、
各地で討幕の動きが起こります。
後醍醐天皇は伯耆(ほうき-現在の鳥取県)の名和長年(なわ ながとし)を頼って、
隠岐を脱出。幕府はこれを抑えるために足利尊氏を遣わしました。
尊氏はかねてより、北条氏にとってかわる野心を抱いていたので、
途中で幕府に反乱し、六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略しました。
(六波羅探題の跡地は現在、京都市立六原小学校になってます。)
また、新田義貞(にった よしさだ)も上野(こうずけ-現在の群馬県)で挙兵し、
鎌倉を攻略、北条守時(ほうじょう もりとき)を滅ぼしました。
これにより、源頼朝(みなともの よりとも)以来、約140年続いた鎌倉幕府は
1333年(元弘-げんこう-3年)に滅亡しました。
そして、ここから足利尊氏が主役となり話が進んでいくのですが、
今回は序章だけで終わってしまいそうです。
続きはまた次回!(なんとか毎週日曜日に更新したいと思います)
以上、チェックでした!
4月18日(土)の試合結果
中日 3-2 広島
先発の黒田は7回を投げて被安打7、与四球1、2失点の好投。
打線は1点を追う7回、野間、會澤の連続ヒットでノーアウト1塁、2塁の
好機を作ると、代打安部が送りバントを決め、1アウト2塁、3塁。
1番、2番へと続くも丸は内野ゴロ(この間に1点)、菊池が倒れ1点どまり。
ここで勝ち越したかった!そしたら黒田に勝ち星が…。
結局その後点が獲れず、延長11回にヒースが被弾しゲームセット。
1点差で負けるゲームがなんと多い事か。
投手陣は頑張っとるぞ!(ヒースは微妙じゃけど…)
打線、ほんまに頼むで!!
ほいじゃあ、また!
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チェック社長(小川真平)
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