こんにちは!チェック社長こと、サンモルトの小川真平(@Shinpei_Ogawa)です(*^^)v
23日は福山市田尻町で杏まつりが開催されました。
軽トラ市の片付けを終えて行こうと思ってたのですが、チビがお昼寝タイムに入った&僕も昼寝しちゃったので残念、行けず…。
杏まつりは終わっちゃったけど、杏はまだまだ見ごろのようなので、時間があれば田尻町をプラプラしてみよ。
さて、今日はその杏まつりのルーツを探っていきます。
田尻あんずの原点は333年前
福山市田尻町の杏は、現在、長野県の更埴市(こうしょくし)に次いで日本第2位であり、西日本はもとより、関東地方にもその名が届いているようです。
しかし、この杏は一朝一夕で出来たものではない。
1681年(天和元年)阿闍梨尊意(あじゃりそんい)が大分県から田尻の円明寺の住職として入村の時、杏の種を持ってこられ、寺の墓地に植えたのが始まりとされています。
それ以後、金崎(田尻町の地名。バス停がある)に最も多く栽培され、鞆の港より各地に運ばれ、その声価を高めていったそうです。
杏の花に賑わいを極めた戦前
明治から第二次世界大戦の前頃までは家ごとに杏が数株植えられ、その収益を地租、諸雑費の支払に充てられていました。
また、杏の花が咲くころには観光客も多く訪れ、賑わいを極めたと言われている。
この盛況にあやかろうと露店も数多く出店し、鞆鉄道(当時は鉄道が走っていた)は料金の割引をしてこれに応えていたとか。
その時、酒宴が催されていたのは「風呂ヶ鼻」の山頂で、ここからの展望は一幅の絵画(掛け軸に掛けられたような絵)だと評判を呼んでいたとか。
当時は福山の資産家たちが場所を奪い合うほどで、赤毛氈(あかもうせん)が敷かれ、芸者を侍らせ(はべらせ)ての酒宴であっと言われています。
また、海上からは舟を仕立てての酒宴も行われていた記録も残っているそうです。
今の杏船(あんずせん)のルーツはここですかね。
しかし、戦後の食糧難、杏の収穫が優先されたことから杏の花を楽しむどころではなくなってしまった。
杏の花を楽しむ習慣が廃れていってしまった。
この時期に、杏の木は隣町の鞆町でも僅かながら植え付けがあたったようです。
杏の古里、再興
1978年(昭和53年)「杏の古里、再興」の気運が高まり、まず高島小学校児童たちによって杏の種子を集める運動が開始されました。
なんと、子ども達が集めてきた時の”ご褒美”があった。
種子5個 → 鉛筆1本
種子30個 → ノート1冊
ご褒美が文房具ってとこが微笑ましい。
杏の栽培の研究には、県、市、農協の技師たちが指導にあたり、約3万個の種子が福山園芸センター、JA福山農園、田尻の個人農園で播種(種まき)されました。
「杏の古里、再興」に向けて、着々と進んでいったのでした。
さぁ、どんな”取り組み”で再興が成ったのか!
続きは次回!
以上、チェックでした。
共に地元を元気にしよう!
チェック社長(小川真平)
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