こんにちは!チェック社長こと、サンモルトの小川真平(@Shinpei_Ogawa)です(*^^)v
さっそくですが、前回の続きを…。
前編は見てない方はこちらでチェック!
と、その前に田尻の杏発祥の地とされている円明寺(えんみょうじ)について少し触れておきましょう!
円明寺(真言宗 明王院末)
松道山と号し、本尊は聖徳太子作と伝える観自在菩薩。
1795年(寛政7年)5月5日。火災に罹り(かかり)本尊を残すのみで過去帳その他、すべてを焼失。
言い伝えによると、元圓明庵(げんえんみょうあん?)と称され、文明年間(1469年~1487年)に建立されたと記されている。
とにかく、歴史が古いってことですね。
さぁ、本題に入りましょう!
杏の古里、再興
1979年~1980年(昭和54年~55年)にかけて、発芽、苗木の集中管理が行われ、また、「杏のふるさと振興会」が174名の会員によって発足。
さらに、老人会による除草作業、会員による古木の剪定、杏栽培講座などが順を追って実施され、栽培本数は247本になりました。
1979年(昭和54年)4月には田尻の杏がNHKにて全国放送されます。
1981年(昭和56年)には、年間を通して育苗(いくびょう)に専念すると同時に、苗木を会員に配布したり、町内7か所に展示園を設置。
また、栽培の技術を高めるために先進地である長野県更埴市(こうしょくし)を40人で視察、研修。
さらに阿闍梨尊意(あじゃりそんい)入植300年を記念し、高島八幡神社に記念碑を、円明寺には杏発祥の地の碑を建立し、杏の苗木を田尻全戸に配布しました。
この時、栽培本数は998本に達しています。
1982年~1984年(昭和57年~59年)に広島県の認定事業となり、助成金の交付を受ける。
また、役員による共同防除の実施や、分散育苗がなされて、杏の栽培暦の作成がされた。
さらに、県コミュニティー大学での発表、福山市園芸センター祭りへの加工品展示、
品種比較試験植え付け、街路樹の育品172本、長野県への視察、栽培指針づくり、1村1品運動などなど充実期を迎え、再びNHKによる全国放送もあり、益々意欲が高まってきました。
好事魔多し
しかし、1984年(昭和59年)には「灰星病」が多発。
灰星病(かいせいびょう?と読むのか?)とは、収穫直前または、出荷中の熟果に発生する厄介な病気。
始めは小さな褐色の斑点が出来、まもなくして急速に広がり、果実全体が腐敗する。
1985年~1988年(昭和60年~63年)は街路樹の植え付け、動力噴霧器の入手による共同防除が実施された。
さらに1985年(昭和60年)には「せんこう病」が発生。(細菌が侵入し、葉、枝、果実に黒い穴があく)
1987年(昭和62年)には「杏の古里、再興」の10周年を迎え、栽培本数は1869本に達した。
1989年に開催された「ひろしま海と島の博覧会」で試作杏菓子の卸売りを行なった。
しかし、1990年(平成2年)を除き、半作、多雨による落下、台風による落葉、灰星病と、その対策に悩まされ続けた。
そんな中でも、着実に栽培数の伸ばし、1992年(平成4年)に栽培本数は2039本に達した。
それ以降も、様々な活動、対策を行ってきた。
第1回、杏まつり開催へ!
記憶に残っている方も多いと思いますが、1994年(平成6年)の水不足。(芦田川の水が干上がってました)
そんな危機的状況でも栽培本数2100本を維持。
その水不足の前年、1993年(平成5年)に第1回目の「杏まつり」が開催されるに至りました。
杏まつりについてはこちらを参照。
福山市田尻町で開催される”杏まつり”のイベント詳細
この杏まつりは一部の有志の方の運動によりスタート。そして、「杏のふるさと振興会」の努力があってこそ、今が在るというのは言うまでもない。
紆余曲折があったからこそ今がある。こうやって歴史を知ると”見方”が変わりますね。
杏に対する想い、素晴らしいですね!
以上、チェックでした。
共に地元を元気にしよう!
チェック社長(小川真平)
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